小さなビッグバン ――RHICが再現する極限の世界

松井哲男

 ニューヨークのマンハッタンからケネディー国際空港のあるクイーンズに渡り、更にロングアイランド・エクスプレスウエイを東に2時間ほど車で走ると、森が広がり人家も疎らになる。この夏、この静かな森の中に広大な敷地を持つブルックヘブン国立研究所(BNL)で、新しい加速器が稼動を始めた。

 通称 RHIC(「リック」と発音する。相対論的重イオン衝突型加速器の略)と呼ばれるこの加速器は、直径1キロ程の円形のトンネルの中に設置された二台のシンクロトロンで重イオン(電子を剥ぎ取った重い原子核)を反対方向に加速して、高速で正面衝突させる装置である(図1)。重い原子核ほど衝突のエネルギーを大きくすることができるが、金の原子核を用いると、その値は最大で40兆エレクトロンボルト(約64エルグ)となる。この値は、これまでシカゴのフェルミ研究所にある世界最大の陽子シンクロトロンで陽子と反陽子を衝突して得られていた値よりも更に20倍以上大きい。

 64エルグというのは、だいたい二匹の不運な蚊が空中衝突したときのエネルギーである。それは一見たいしたことがないように思えるが、これはミクロな物理量をマクロな物理量のスケールで測ったためで、一粒子の平均運動エネルギーが1エレクトロンボルト(正確にはその三倍)でも、それから構成されるマクロな物質の温度は摂氏約一万度にもなる。RHICでの一回の原子核衝突によって非常にたくさんの新しい粒子がつくられるが(図2)、仮に1万個の粒子が生成されたとしても粒子一個当たりのエネルギーは40億エレクトロンボルト、これは単純に温度に換算すると摂氏40兆度という驚異的な高さとなる。

 このような高温の状態というのは現在の宇宙には(おそらく)どこにも存在しないが、ビッグバン宇宙論によれば、今から150億年程昔に、かつて宇宙全体がこのような高温の物質で満たされていた時代があったと考えられている。

 RHICが目指しているのは、そのような初期宇宙の極限状態を実験室で再現して、原始物質の正体をつきとめ、それが宇宙の膨張とともにいかに進化したかを実験的に解明しよう、ということなのである。では、理論的にはこのような超高温で物質はどのような状態になると予想されているのだろうか。

 我々の周りの物質はすべて原子からできている。原子はその中心にある小さく重い原子核とそれを取り巻く軽い電子の雲からなる。原子核は陽子や中性子が核力とよばれる力で強く結合した状態である。物質の温度を上げると、ある温度でその状態は固体から液体、更に気体へと変化する。これは原子の集合状態が変ったためで、熱力学でこの状態変化を相転移と呼ぶ。更に温度をあげると気体中の原子・分子は衝突の衝撃で電子を剥ぎ取られ、すべての物質はいずれプラズマと呼ばれる電荷を帯びた粒子(電子とイオン)が自由に飛び交う状態に変る。気体からプラズマへの変化は温度変化にたいし徐々に起るので相転移とは呼ばれないが、プラズマは電気的に特有の性質を持ち、物質の一つの「相」と考えることもできる。プラズマ中では荷電粒子の衝突によって光子もつくられる。太陽の出す光はまさに高温プラズマから放出される光子の束に他ならない。

 更に温度が上がり摂氏100億度程度に達すると電子と陽電子の対生成が起こり、やがて電子やイオン(原子核)の平均エネルギーが原子核の結合のエネルギーを越えると、原子核も衝突で破壊されて陽子と中性子がバラバラになる。温度が1兆度に近づくと中間子ができ始め、物質は電子、陽電子、光子の他に、中間子、陽子、中性子等(それらは総称してハドロンと呼ばれる)が混じった状態になる。更に温度を上げるとどうなるだろうか?

 現在の素粒子論によれば、ハドロンはクォークと呼ばれる基本粒子からできた複合粒子で、クォークに働く力は通常の電荷に働く電磁気力の法則を一般化した理論(「量子色力学(QCD)」)によって記述されると考えられている。電磁場の量子として光子が現れるように、三種類の「色電荷」(光の三原色、赤、青、緑がよく使われる)を持つクォーク間の力の場(「カラー場」)を量子論によって同様に記述するとグルオンと呼ばれる粒子が出現する。電磁気力の担い手が光子であるように、クォーク間に働く力はこのグルオンが担っている。

 ただ電磁気と違うのは、光子は電荷を持たずそのやりとりで荷電粒子の電荷は変わらないのに、クォークはグルオンのやり取りでその色電荷が変り、グルオン自体も色電荷を持ってそれ自身と相互作用をする。そのグルオン同士の相互作用のせいで、クォークは陽子や中性子のように全体の色電荷が打ち消し合って「白色」になった状態でしか存在できないと考えられている。これは「クォークの閉じ込め」と呼ばれ、クォークがまだ単体で見つかっていないことを説明する理論家の苦肉の策であるが、実はどうしてそうなるのかまだ良くわかっていない。

 この「閉じ込め」の性質により、クォークは電子と違い、いくら高いエネルギーでもハドロンの衝突で「剥ぎ取られる」ことはなく、そのかわり別のハドロンがつくられる。しかし、温度が上がってハドロンの密度が増すと、大きさを持ったハドロンはひしめき合い、やがて互いに押し潰されて、その中に封じ込まれていたクォークやグルオンが自由に飛び交う状態となるだろう。この状態は「クォーク・グルオンプラズマ」と呼ばれている。初期宇宙を充満していた原始物質というのは、このクォーク・グルオンプラズマに電子や陽電子や光子等の軽い粒子が混じった状態であったと考えられているのである。

 RHICがつくられた理由はこのクォーク・グルオンプラズマを実験室で再生して、量子色力学の予言を実験的に検証するためであるといってよい。この計画は、1983年に米国の核物理の分野での次期加速器将来計画の最優先計画と決定されていたが、国家財政難のため、建設が当初の予定から大幅に遅れた。その間、スイスのジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)で既存の加速器をつかった重イオン衝突実験がおこなわれてきた。RHICに比べて衝突のエネルギーは一桁低いが、その成果をまとめた今年の2月の公式報道では、この実験で「クォーク・グルオンプラズマ生成の兆候が見つかった」と報じられている。実は、その兆候の一つは筆者達がシグナルとして提案していたものであるが、予定の原稿の枚数も尽きたので、その説明は別の機会にしたい。いずれにせよ、本格的な実験はまだ始まったばかりである。その「兆候」が本当であれば、RHICの実験でもっとはっきりした形で検証されることが期待されている。

 RHICの実験には、準備段階から日本人研究者が多く関わっており、その国際的活躍が目立つ。実験結果の解釈は一筋縄では行かず、理論家の果たす役割は大きい。駒場の学生諸君の中から、将来この分野にチャレンジしようという人がさらに現れることを期待したい。

(相関基礎科学系・物理)

(Copy right:2000 松井哲男)


Taken from KYOYOBU-HO